
〇五色沼
(全国観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/070013-)
郡山から磐越西線で山間部を40分(快速)ほど走ると視界が開け、南に猪苗代湖が広がり、北側には秀麗と言ってよいほど形の良い磐梯山を仰ぎ見ることが出来る。その北麓に広がる裏磐梯高原には、湖沼群が30余り散在し、五色沼湖沼群と呼ばれている。五色沼のある磐梯山北麓から見上げる磐梯山は、猪苗代湖側とは打って変って山頂部は馬蹄形のカルデラがむき出しになり、大きくえぐられている山姿をみせる。
五色沼の探勝には10数個の湖沼群を見ることができる3.6kmの探勝路を歩くことになるが、よく整備されており、比較的平坦な道なので、気軽に探勝を楽しむことが出来る。探勝路の入口は桧原湖南端のバス停磐梯高原駅から、あるいは秋元湖寄りの裏磐梯ビジターセンター(バス停五色沼入口)からとなる。どちらの入口から入るとよいか、問われれば、私は往復するのが一番と言いたいが、片道でとなれば、桧原湖南端側からをお勧めしたい。その理由としては、こちらからのコースは、比較的平坦な探勝路とは言うものの、若干下りが多いので、多少とも負担が少ないということがある。景観的にもこちら側からのほうがドラマチックかもしれない。
こちらからのコースのはじめに現れる父沼や母沼、柳沼などは透明感が強かったり、多少緑がかったり、と、どこでも見られる色合いの沼が続くようにみえる。ただ、これも紅葉や新緑を映すとなると、その凡庸な色合いも一変するのが面白い。
そして森の中をしばらく歩くと少しミルクを含んだような青色をした青沼に出合い、その色合いの複雑さと時々刻々変わる微妙な変化にしばらく見入ってしまう。さらに進むと沼越しに磐梯山を望み、その山姿を映す瑠璃沼となる。色合いは沈んだ青といった感じではあるものの、南西に向かって磐梯山を望むせいか、太陽光線の状況や水面の風の流れによって、刻々と色合いに微妙な変化を与えているのをベンチに座りながら見るのも良い。
瑠璃沼からすぐのところには弁天沼がある。この沼の色合いは五色沼の中でももっとも秀逸と言ってよいだろう。ターコイズブルーあるいはコバルトブルーと言える目が醒めるような色合いだ。ここでは木陰に座ってゆっくりとその色合いとその変化を観賞したい。もちろん、新緑や紅葉にもよく映え、さらには水草の島が沼の所々に浮かび、これがまた絶景を生み出している。沼越しに吾妻連山も遠望できる場所もある。
このあと、色合いの変化が著しい深泥沼、鉄分により水草の根の部分に赤みを見せる赤沼など、様々な色調の湖沼群を見ながら進むと、クライマックスには毘沙門沼が待っている。
探勝路の中の湖沼群ではもっとも大きな沼で、色合いはターコイズブルーまたはコバルトブルーと称されるが、その時々に変化が青を軸に緑が強くなるようにも見え、弁天沼より水深があるせいか色合いにも深みがあるようにも感じる。ここでのみどころは何といっても磐梯山の爆裂火口、カルデラを正面に遠望できることであり、景観にダイナミックさを与えている。この毘沙門沼を過ぎると、もう秋元湖寄りのビジターセンターの前に出る。
五色沼の景観は、とくに色合いは新緑、深緑、紅葉、雪と周辺の季節の変化にも影響を受けるし、時間帯、天候などの光線の条件、見る位置によっても印象が大きく異なる。私も冬場を除き、春夏秋とそれぞれ歩いたことがあるが、いずれの時も新しい発見と感興が生まれ、ぜひ、お勧めしたい観光資源のひとつだ。
こうし素晴らしい感興を与えてくれている五色沼について、例えば、ベンチに座って弁天沼を眺めていると、この自然景観を人間が楽しめているのはいつからなのだろうか、ふと思ってしまうのだ。
なぜなら、この景観を自然が造形したのは1888(明治22)年の噴火・山体崩壊によるもので、いまから150年ほど前に過ぎない。それも日本の国土が抱える自然災害の一つ、火山活動によりおおきな犠牲のもとに造り出されたもので、日本の災害の縮図でもあったのだ。その歴史的背景について、自然景観を愛でつつもその事実を多少なりとも知っておくべきだろう。その点にも少しふれておきたい。
江戸末期の磐梯山の山容や人間の入植状況は、江戸後期に編纂された「新編会津風土記」によると、磐梯山について「猪苗代城下の西北にあり三峯並峙つ 積翠空に挿み一郡の偉観なり 中峯尤高し西を小磐梯といひ東を赤埴山といひ又見禰山と称す 高三百丈周十五里絶頂に磐梯明神とて叢祠あり」としている。また、「東の半腹沼九あり周各三十間計 小磐梯の西に温泉湧出味酸頭痛積聚(冷えによる腹部の疾患)眼疾諸虫によしと云 硫礬石(硫黄、明礬)を産す」とも記しており、噴火の予兆を感じさせる記述はない。
また、噴火の被害をもっとも受けた麓の檜原村(檜原、雄子沢、細野、秋元原等)については「四方に大山峙ち朝夕日光を隠し霜雪早く降り嵐気常に甚だし その境内の広きこと一組の地面に比すへしといえとも大抵山谷の間にて山野相交はりみな萱原なり 土地亦瘠薄不毛の地にひとしけれは村民専ら木地をひき望陀の皮を剥き或は旅店を設け駄馬を追て生計をなす」とする厳しい生活状況であったため、税も免除されていたという。数十万年まえからの火山活動によって形成された台地での厳しい生活環境だったことが窺える。
当時の檜原村の各集落、檜原には「50軒」、雄子沢には「13軒」、細野に「7軒」小野川「3軒」早稲沢「10軒」あったと同書では記載されている。秋元原の記載はないが、これは同集落が文政年間(1818~1829)の入植で、同書の編纂後だったことによる。これと噴火、山体崩壊が起った1888(明治21)年当時も集落の規模はほぼ変わらず、檜原が50戸、雄子沢20戸、細野7戸に秋元原が12戸、小野川12戸、早稲沢12戸となっており、住民は全村で653人だったという。
檜原集落が比較的規模が大きかったのは、米沢と会津を結ぶ米沢(会津)街道の宿駅であったことによることが大きいようだ。また、天正年間(1573~1592)には、現在の檜原湖北岸付近に金山が発見され、「新編会津風土記」では慶長年間(1596~1615)が最盛期だったと記し、「諸国より人多く集り小屋敷も千軒計有て許多の金銀を採りし」としつつも総額は不詳だとしている。その後も銀の産出もあったようで、慶長年間のような賑わいはともかくも発掘は噴火、山体崩壊で一時旧山したものの、昭和初期まで採掘は続けられていたようだ。
ただ、磐梯山は活火山ではあったが、806(大同元)年の水蒸気噴火以降大きな噴火がなかったこともあって、近代に入ってもさほど火山活動に対する警戒感はなかったともいえよう。
その厳しい山あいの環境の中ではあるが、檜原集落は1486(文明14)年、雄子沢集落は1660(万治3)年、細野は1775(安永4)年に入植し、決して豊かではないものの、安穏とした生活を営々と築いてきた。しかし、それが1888(明治21)年7月15日の朝、7時45分に始まる小磐梯山頂の噴火と、その後の山体崩壊により壊滅的に破壊されることになる。山体崩壊による岩屑なだれは北麓の檜原村など5村11集落を襲い埋没させ、さらに南東麓側にも火砕サージや泥流が流れ下り、大きな被害を生むことになり、死者も477名に及んだ。
とくに、雄子沢では106人、細野では43人、秋元原では67人と3集落合わせ216人が亡くなり、当時の人口が233人だったと推定されているので、ほぼ全滅状態となり、甚大な被害を受けた。さらに噴火時の土砂に寄り川が堰き止められ、檜原と小野川は水没の危機にさらされ、移転せざるを得なくなるといった惨状であった。
小磐梯の噴火時にもっとも近くにあって大きな被害を受けたのは、小磐梯山頂の西側にあった上の湯、中の湯、下の湯の3つの湯治場であった。上の湯と下の湯は噴火とともに一瞬のうち壊滅し生存者はいなかった模様だが、中の湯は爆裂火口に対し尾根の陰にあったため、被害は多少減じられ生存者もいたが、三湯合わせ役場に届けてのあった死亡者28名だとされているものの、湯治客はもっといたとする証言もあるので、詳しいことは分かっていない。
この時のことを官報1575号(1888年9月27日)に磐梯山の噴火に関する報告書が掲載されており、そのなかに、中の湯に滞在していた新潟から来ていた来迎寺住職鶴巻浄賢が当時の実況を記した書状が引用されている。それによると「十五日前日同様天気晴朗ナリ 湯ノ量モ前日と差シテ変リタルコトナシ 此日八時頃ト覚シク大地震トナリ 一同大ニ驚キ小屋ヨリ飛出テ何ヤラント思居リ候処十分時許経テ上ノ湯ヨリ一町程上ニ平常湯気ノ出ル処アリ 其辺ト思フ処ヨリ大砲三挺程一度ニ発セシ如キ音聞エ黒烟一度ニ立上リ山崩ノ響抔其凄シキコト言ハン方ナク瞬ク間ニ黒烟天ヲ掩ヒ大小ノ石落ルコト限ナク」という厳しい状況が1時間ほど続いたという。ケガは負ったものの、落石も収まり暗闇状態が少し薄らいだのをみて「逃走ルコト二町程下ルトキ二番破裂アリ 三町下ル処ニ三番破裂致シ申候 其時ハ土砂ノミ身ニ挂(かか)リテ石ニ打タレモウサス」という危機的状況を乗り越え下山したという。まさに山体崩壊を起した小磐梯の山頂近くで、自然の途方もない破壊力を目の当たりにしたのだ。
一方、この山体崩壊に岩屑なだれに見舞われた檜原の各集落における状況については、福島県の地元住民への聞き取り調査の証言が「百年史」に掲載されている。
そのなかで雄子沢の住民は川釣りで山に入っている時にこの山体崩壊に遭遇するのだが、最初は噴火だけだと思い集落へ戻る途中、山が抜けたという話をきいたものの、そんなことはないだろうと思い、さらに進むと「開墾小家七八間(13~15m)手前ニテ抜ケニ出会愈々来ルト思イマシタ故、小野川ヘ向ケ」逃げることにしたという。ところが「ソノドント音ガシテカラ何ンデモ十七八丁(2㎞ほど)モ参リマシタガ、真黒ノ烟リガウズヲ巻キテ来マシテ、ソノ止マリタノハ大島原開墾小家ヨリ一丁(約100m)程南」だったと証言している。
このこの住民はその後小野川に逃げてケガをしたものの、九死に一生を得ることになる。住居のあった雄子沢の集落に7日ほど戻って見ると「土石ヲ以テ十丈(18mほど)位ハ居家ガ埋リタルモノト思イマシタガ、ドコガ雄子沢ト云ウコトモ、カツキリ知リマセン位」というほどの凄惨な状態を目の当たりにしたと述べている。
また、檜原集落(本村)の住民は畑仕事に出ていて、この噴火、山体崩壊に遭遇しており、その時のことを証言している。
それによると、轟音とともに「磐梯山ヨリ真黒ノ烟リガ、真直グニ上リ、櫛ヶ峯ノ方ト大磐梯ノ方ヨリ雷光ノ如キ火ガ出テ真直グノ黒烟ガ(中略)磐梯山ノ半マデ下リマシタ」として、さらに「磐梯山ヲ跡ニシテ逃ゲマシタガ、ソノ有様ハ黒烟ガ先立テ土石ガ山ノ様ニナリテ押出シ」てきたという。近くにいた親子に逃げるように促したものの、「黒烟ノ中ニ家ノ様ナ土石ガ鉄砲ノ丸ノ様ニ、ゴウゴウト云ウ音ガシテ来ル」のが見え、自分はなんとかそれから逃れることはできたが、親子は逃げ切れず亡くなったと緊迫した、悲惨な状況を語っている。
このようにいわゆる裏磐梯を中心に大きな山の崩壊によって、地形が原形を失うほど激変していき、その中で人間にとっていくつもの悲劇が生まれた。
この激しい噴火と山体崩壊によって、細野、雄子沢、秋元原の集落はほぼ埋没し、長瀬川、中津川、不動沢、檜原川、雄子沢を堰き止め、窪地に滞水し、檜原湖、小野川湖、曽原湖が形成され、五色沼湖沼群などの沼地が大小300ほど生まれたという。また、各所に数多くの流れ山が据え置かれた。これが今の裏磐梯、五色沼周辺の景観を形づくっているのである。
いわば、150年前の悲惨な火山災害が、いまは、観光資源として重要な役割を果たしている。それゆえか、あの美しい幻想的な五色沼の水の色を眺めていると、自然の驚くべき力とその不思議さ、それに対する人間の卑小さを私は感じ入ってしまう。自然はいつも「想定外」の事象を提示してくるので、人間はもっと自然に対し謙虚であらねばならいと思い知る。現代でも東日本大震災でもそれに伴う原発事故でもそうだが、どうもその教訓の風化が早いようだ。
観光資源として素晴らしい五色沼や裏磐梯高原をより一層活用していくとともに、自然の驚くべき力と不思議さを、この地でも改めて学びたいものである。
参考文献・引用文献
北塩原村磐梯山火山ハザードマップ
https://www.vill.kitashiobara.fukushima.jp/uploaded/attachment/275.pdf
福島県史料集成 第2輯「新編会津風土記」1952年 64・127/443 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2998472/1/64
「磐梯山噴火百周年記念誌」1988年 37・41・42など/146 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/13191382/1/37
「官報1575号1888年9月27日」2/7 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2944813/1/2














