
〇真壁の町並み
(全国観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/080256- )
桜川市真壁町は、筑波山の西麓にあり、2022(平成10)年、重要伝統的建造物群保存地区に選定されて以降、その整備が進んでいる。この地は、律令期(7世紀後半~10世紀)には国府(現・石岡市)と東山道をつなぐ要衝であり、中世には真壁氏の城下町が形成され、近世においては、木綿などの物産の集散地であるともに笠間藩の陣屋が置かれていた。このため、「真壁の町並みの特徴は、中世城下町と近世陣屋町の遺構を残すとともに、道幅などに木綿などの集散地としての町割りの名残りがある」(「全国資源台帳」)ことが選定された理由である。
かつては要衝の地であったことから近代に入っても筑波鉄道が通じ、土浦と繋がっていたが、現在は鉄道も廃され、メインルートからは外れてしまっている、このため、この地を訪れるには、自動車に頼る以外ない。
もちろん、マイカーやツアーバスで訪れて、この地を楽しむのも良いが、お勧めなのは、JR常磐線土浦駅近くからJR水戸線岩瀬駅までの約42㎞、筑波鉄道の線路跡地に整備された専用サイクリングロード「つくば霞ヶ浦りんりんロード」を利用して訪れることだ。真壁までは、土浦駅から約32㎞、岩瀬駅から約10㎞の距離だ。土浦駅や、つくばエキスプレスつくば駅からバス便のある筑波休憩所では、レンタサイクルの貸し出しも行われている。コースは比較的平坦で、広々した関東平野を走り抜け、筑波山の雄大な山姿を見ながらのツーリングは爽快である。
町割りや建造物については、「全国観光資源台帳」などを参考していただきたいが、ここでは私が興味を持ったのは、近世に町割りの重要なファクターとなった「木綿」についてである。
すなわち、江戸の北、真壁がなぜ集散地でありえたかが興味深いところである。
まず、中世末から近世に入って木綿の需要が日本で急激に拡大したかについて触れてみたい。このことに触れるのにあたって、もっとも参考にすべき文献は柳田国男の「木綿以前の事」だろう。
木綿が日本に伝来したのは、柳田は「木綿以前の事」のなかで「木綿が我邦に行われ始めてから、もう大分の年月を経ている」と述べ、それは799(延暦18)年のこととしているが、「綿種」の伝来については「類聚国史」の「殊俗 崑崙」の項に、この年に「有一人 乗船小船 漂着参河国」としてその持ち物を調べてみると「有如草実者謂之綿種」があったという記事がみられる。これは「日本後紀」を採録したものとみられ、その後のこととして「紀伊 淡路 阿波 讃岐 伊予 土佐及び大宰府」の諸国で栽培してみたとし、栽培方法も詳しく書き加ええられている。ただ、永原慶二よると、日本における木綿栽培は、綿種がインド産で栽培技術もなく広がらなかったとしている。その後も大陸、朝鮮半島からの輸入に頼っていたため、貴重品として貴族、寺院などで限定的に利用されていただけで、日本では布地として代表的なものは麻、絹であったという。
しかし、永原は日本における木綿需要が急激に増えたのは室町時代に入り、応仁の乱など戦乱の時代になると「兵衣として抜群の性能をもつことが認識された」(講座・日本技術の社会史 第3巻 『紡織』)ことだと推測している。これを契機に国産化も進められたとみられている。永原は国産化が広がり始めたのは、古文書・記録などから15世紀末ころからではないか、とも推定している。この時期が日本の衣料が「麻」から「木綿」へと移行したのだ。
柳田国男は「木綿以前の事」でその変化について分析している。
柳田は木綿の普及の時期について、俳句をいくつか引用して「まだ芭蕉翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐにこのような優雅な境涯を、聯想する習わしであったのである」としている。また、木綿が一般庶民に重用された理由については「第一には肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠く且つあまりにも滑らかでややつめたい。柔かさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が優まさっていた。第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった」からだとしている。
さらに綿布にする「作業はかえって麻よりも遥かに簡単で、僅わずかの変更をもってこれを家々の手機で織り出すことができた。そのために政府が欲すると否とに頓着なく、伊勢でも大和・河内でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした平地が棉田」に変わって行ったとも指摘している。この綿種の栽培の時期については、前述したように延暦期の最初の輸入期には全国には広がらずに「実際に各地で栽培が始まったのは三百年、南蛮との交通よりも早いとは考えられない」ともしているので、これは永原が史料などから「十五世紀末~十六世紀中葉が国内検索・綿業の始期」とする推論とも合致している。
綿作は温暖な地域に適していたので、本来なら、西日本(畿内・中国・九州など)での生産、加工が中心であるはずであるが、意外に東日本(東国・東海)でも早くから行われていたことも分かっている。永原によると東日本(東国・東海)での綿作の開始について確実な史料として1501(文亀元)年の「武蔵国越生上野聖天社棟札」にでは「木綿一反」の奉納の事例を挙げている。西日本での綿作が史料のなかで盛んに取り上げられるようになるのは16世紀中庸以降を示すものが多いので、東日本より、綿作が普及するのが遅かった可能性があるとされている。
その理由については、九州を中心に西日本では輸入物がまだ多く品質的にも量的にもそちらに頼っていたのではないかという説を紹介しつつも、永原はこの説を過大に強調すべきではなく、「輸入木綿への依存と国内栽培とは必ずしも背反」しないとして「第一段階(十五世紀末・十六世紀初頭~十六世紀末・十七世紀末)において①寒冷など栽培上の制約条件に規定された地域をのぞき、ほぼ全国展開をとげたこと、②そしてそのような綿作が、進展しつつあった集約的小経営にもっとも適合的」であったため広がりやすかったとしている。
さらに第二段階として17世紀=江戸前期においては、三河を除き東日本や九州においては、栽培地の条件や綿業の分業化など経営技術の進展もあって綿生産は畿内に集中して行ったため、商品生産としての綿作・綿織物は衰退していく傾向がみられたという。そして18世紀に入った第3段階では商業生産の拡大、高度化に伴い、東日本や中国地方が新興綿作地として再び脚光を浴びるようになったと永原は分析している。
また、寒冷地で綿作が適さない東北地方は、柳田によると、明治期に至っても「一般に冬でも麻の着物を着ていたのである。寒国には木綿は作れないから、一方には多量の木綿古着を関西から輸入して、不断着にも用いているが、冬はかえってその上へ麻の半てんを引掛ける風がある」とし、「麻布は肌着に冷たく当って、防寒の用には適せぬように思われるが、細かい雪の降る土地では、水気の浸しみやすい木綿を着るのはなお不便だから、いわば我々の雨外套のかわりに、麻布を着て雪を払っている」というのである。いわんや江戸時代においては東北地方においては、関西から木綿が大量に移入されていたことは当然なことであったろう。
以上が綿作・綿業の全国的な大きな歴史的な流れだが、これを真壁とその周辺の動向に関連付けてもう少し見てみたい。
「茨城県史」によると、常陸国おける綿作は「慶長期(1596~1614)にすでに認められ、自給的な農民衣料としての木綿生産は十七世紀前半にはじまっていた推測」されるとしている。さらに真壁町の商家中村作右衛門家では、拡大する木綿の需要に応え、地元産だけでは対応できないため「畿内、東海地域と東国を結ぶ営業活動」をしていたという。真壁の旧商家に遺る史料から「真壁に運ばれた繰綿はこの周辺に売られただけでなく、さらに遠く東北地方へと送られていった。店卸に見られる地名としては仙台、福島、白河、南部、山形、最上、二本松などがあげられる」(「真壁町史料」)として、東北地方への流通も担っていたことがわかる。
東北地方への出荷は耐久性の強い縞模様の「縞木綿」が中心で、普段着、作業着として使用されるものが多かったという。これらの普及品は、当初は真壁周辺において家内作業で織り出されたもの多かったとされている。こうした木綿を扱う問屋は江戸中期には真壁には13軒あったという。これが江戸時代後期なると、真壁周辺の縞木綿のみならず、三河、畿内などからの移入品の比重が高まったとされている。
江戸時代中期には、真壁周辺においても、高品質の晒木綿が作られるようになり、隣接する下野の「真岡晒」や常総産の「晒」を江戸に移出するようになっていく。このように、真壁及び真壁周辺の綿作・綿業の動向は、当然ながら、全国の大きな歴史的流れに沿っていることが分かる。
それでは、真壁という場所がなぜ集積地となったか、ということになる。
真壁の役割として重要な点は、地元産の縞木綿とともに関西、三河の綿布などを、江戸を経由して東北への木綿流通の拠点となっていたということが分かる。さらに江戸時代後期になると、関東での木綿栽培の拡大と織物技術の向上によって、真壁の周辺において「真岡晒」などブランド化するレベルの綿布の生産が盛んになる。これも当然ながら東北地方のみならず、大きなマーケットである江戸、あるいは江戸を経由して全国各地へ出荷するようになった。これらの物流をみると、真壁の街の歴史的役割、機能と地理的位置が重要と要素となろう。
この点を整理してみると、真壁は、古代から東北への本街道である東山道とかつて常陸国府があり、その後、水戸街道の要衝となった石岡を結ぶ街道の中間点にあったことは前述した。中世に入ると、桜川市の「史跡真壁城跡保存活用計画」の資料によれば、地方豪族の勢力が強まりとともに、この地域では「常陸平氏の一族、平長幹が真壁郡司(郡の長官)の役職を得て進出したものとみられ(一説に承安2年〔1172〕)、土地の名前を取って真壁氏と名乗った」とされる。紆余曲折はあったが、戦国時代まで生き延びた真壁氏は、15世紀中ごろには居城として真壁城を築城したという。
その後、常陸国北部に勢力を有する佐竹氏の傘下に入り、同地域の支配を固め城下町の形成に努めたというが、関ヶ原の戦いで西方側に付いた佐竹氏の秋田移封に伴い、真壁氏も従ったため、廃城となった。同地は「真壁町を中心とする真壁郡は数年の徳川氏直轄領期を経て、慶長 11 年(1606)に浅野長政の領地となった」が、同地は浅野重政の隠居料代わりであったため、さほど大きな発展はなく、「三男の浅野長重が継いで、真壁藩5万石が成立した。長重は真岡時代の家臣団を母体として、真壁氏の旧家臣を含めた5万石相応の家臣団を編成、新たに町内に真壁陣屋を設営して、真壁氏時代に作られた町割りを踏襲しつつ町場を整備」されたという。
さらに長重は加増され、真壁藩を包含した笠間藩主となったため、同地は陣屋を中心に代官による支配となった。その後、「笠間藩主は浅野氏から井上氏、本庄氏、再び井上氏と代わり、延享4年(1747)に牧野氏が入封」し明治期に至るまで陣屋支配が続いた。
「茨城県史」によると真壁は笠間藩の支配地ではあるものの、この周辺地区における「城下町の補完的な役割を担うことになり、農村のなかの在町として機能」したというのだ。いわゆる「在郷町」として都市機能が形成されるようになる。
ただ、住民は村方のままであり同町には元禄期には2525人が在住していたとされるが、大半が本百姓として扱われていた。しかし、実際は、町方の商業、手工業の担い手であり、前述したようにその中心となっていたのが13軒あった木綿に関する問屋であり、それに関連する小買の商人だったのだ。
こう考えると、笠間藩のお膝元の城下町ではなく、陣屋支配であったため、「在郷町」としてこの地域の商業の中心、あるいは物産の集積地としての機能が前面に出されたともいえよう。ちょうど、綿作がこの地域で一般化し、その後縞木綿の生産が始まって行く時期に軌を一にして、在郷町として発展していくと言ってよい。
真壁の地理的な位置関係については、最大のポイントは、やはり物資の集積地として一定の優位性が確保できるか、である。陸路については、本街道沿いではないものの、東山道(奥州街道)にも、水戸街道へも出やすく、真壁にとって縞木綿の重要な販路となる東北への中継地点としては優位性がある。
一方、大量の物資の輸送に必要な水運であるが、真壁町には川湊はない。もっとも至近の河川は、桜川である。桜川は30㎞ほど下流の土浦で霞ケ浦へ注ぎ、下流部では江戸への水運の重要な河川瀬となっているが、真壁に近い上流部には川湊は設置されておらず、大きな役割を果たしてはいなかったと思われる。次に近いのが小貝川であるが、これについても一定の舟運の便があったとされものの、物産輸送の中心的存在ではなかったようだ。では、真壁の問屋が集荷した縞木綿などの綿製品、あるいは関西、三河からの綿製品を大量に運んだのは、これは現在の筑西市を流れる鬼怒川だという。筑西市の中心となる下館は、江戸期にはこの鬼怒川の中心であった。
下館からの鬼怒川を使って江戸までの水運が開かれたのは。下館市史によると、1598(慶長3)年だったとしている。下館にあった舟運の河岸は下館市史では「下館藩、結城藩、畑本領内の年貢米廻送にあたったばかりでなく、北は久下田、真岡から東は岩瀬、笠間に至る広大な地域の物資を輸送し、さらに東北地方より下ってきた荷物を中継」する機能を担っていた。真壁の地名は出ないが、ここに記された地名のなかでは至近の場所であり、真壁の商人たちが集荷していた地域とも重なっている。
また、「真壁町史料近世編2」では、その史料から「真壁や下館を経由して大量の繰綿の流通が十七世紀中葉からみられる」とし、この地域での木綿類の流通の流れについて「十七世紀後半からみられる真壁周辺から織り出される嶋(縞)木綿及びその他織物類の存在や、真岡晒の名で知られた晒木綿の原料となる広木綿の集荷」、「十八世紀前半以降にみられる上方木綿の流通」などが史料から読み取れるとしている。また、例えば三河からの荷が「真壁まで江戸川・利根川を経由して鬼怒川の宗道河岸」に至り、「真壁に集荷された嶋木綿は、以後駄走となって仙台」へ運ばれたことが推測できると、している。以上のように、真壁から10数㎞ほどの距離にある下館の鬼怒川河岸からの水運は重要な「綿の道」として機能したと考えられる。
このような歴史的背景、地理的条件から、真壁は下館、結城、下妻などとともに木綿あるいは絹などの織物の製品、原材料の集荷、流通機能のコアのひとつとなっていったといえよう。
観光資源として真壁の町並みをみてみると、真壁は真壁城の城下町の町割りの上に、廃城後、陣を中心とした在郷町としての町割りへと修整加えられ、江戸末には防火対策から蔵造りの町並みとなり、さらに近代的な商家に一部が建て替わって行くといった歴史の積み重ねを見出すことができる、全国でも数少ない街として評価できる。それは、前述した真壁の地理的条件、歴史的背景があり、なおかつ近現代におけるメインルートから取り残されたことにより、町並みが継承されたという事情があったからといえよう。
その意味では、真壁での街歩きでこそ、近世初頭に日本の衣料革命を起こした木綿の流通の中心として繁栄した歴史をかみしめることができるのではないだろうか。
参考文献・引用文献
柳田国男「木綿以前の事」青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53104_50767.html
「六国史 : 国史大系 日本後記・続日本後記・日本文徳天皇実録 再版」
経済雑誌社 大正7年 21/343 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/950695/1/21
「六国史 : 国史大系 類聚國史」経済雑誌社 大正5年 677/681
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/950692/1/677
「2026 全国コットンサミット in 天理」HP 「綿の歴史」
https://cottonsummit2025tenri.com/story/history/
永原慶二 ほか「講座・日本技術の社会史 第3巻 (紡織)」日本評論社
1983年 42~56/178 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12590502/1/42
「真壁町史料 近世編 2 (繰綿と木棉)」1987年 19・22・28/208 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9644160/1/22
「茨城県史 近世編」1985年 115・126/474 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9643411/1/126
「史跡真壁城跡保存活用計画(案)」
https://www.city.sakuragawa.lg.jp/sys/public/data/doc/1765755940_0.pdf
「下館市史 上巻」1982年 364/409 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9642481/1/364











