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​特集 9月号​ 私選味わい深い観光資源(10)
〇茨城県編① 日立風流物

​〇日立風流物

  (全国観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/080560-)
 私は人混みを避けることが多いので、あまり祭り見物に出掛けないが、「全国観光資源台帳」の原稿を書くため、「日立風流物」を見に行くことにした。しかし、「日立風流物」の山車は4台あるものの、その全部が揃うのは7年に1回の大例祭の時だけとのことで、タイミングが合わないため、毎年4月に催される「日立さくらまつり」では1台だけではあるものの公開されるということを聞き、重い腰をあげてみた。
 さては、ということで常磐線の特急「ひたち」で日立駅へ。この駅のある日立市は、日本を代表する企業グループ「日立グループ」の創業の地で知られているが、市名と企業名が一緒なので、どちらが先なのか、気になるところだ。
 そこで本題からはずれるが、日立市のHPなどで確認してみると、どうやら次のような順序らしい。1889(明治22)年に宮田村と滑川村が合併した際に「日立村」と名付けられ、1905(明治38)年にそれまで開発が進まなかった赤沢銅山が近代的な企業化がなされ、日立銅山として日本で有数の鉱山になったという。この「日立」は村の名からとったとされ、さらに、鉱山に関連して1910(明治43)年には、日立製作所が創業したという。その後 日立村の周辺地域は企業城下町として発展し、1939(昭和14)年には日立市が誕生したという。この時、「日立」という市名としたのは、企業城下町の中心であった、「日立製作所」の企業名から選択したという。
 それでは、もともと宮田村と滑川村が合併した際に「日立村」と名付けたかが問題となる。これには諸説あるようだが、なかでも徳川光圀がここで、太平洋から朝日の昇るさまを見て水戸領内随一だとして名付けたというのが一般的だが、どうやらこれは後付けらしい。おそらく、明治期の村の統合する際の有力者たちが、朝日が美しいことや常陸の国の音から創案したというところではないだろうか。
 いずれにせよ、この地の朝日が美しいということを、いまでも実感できるところがあるが、それはじつはJRの日立駅なのだ。この駅は、地元出身の建築家妹島和世の設計したもので、30mほどの海岸段丘の上にガラススクリーンを多用した建物は美しいばかりか、改札を出ると太平洋の広がりを実感させてくれる造りになっている。鉄道ファンでなくとも是非とも立ち寄りたいところだ。(https://tabi.jtb.or.jp/res/080650-)
 さて、閑話休題、本題に戻りたい。私が訪れた「日立さくらまつり」はこの「日立駅」の前から国道に通じる「さくら通り」を中心に開かれるが、「日立風流物」の山車は、その「さくら通り」の中心辺りに据えられる。この「日立風流物」は神峰神社の大祭礼で披露されるもので、現在は東町、北町、本町、西町の各地区で1台ずつ継承されているという
 私が訪れた時は「北町」の当番で、山車の上で行われる出し物は表山が「風流太閤記」、裏山が「風流花咲爺」であった。表山、裏山、それぞれに飾り付けられた山車の上で人形芝居が行なわれるようなっており、例えば「花咲爺」では桜吹雪に見立てた紙吹雪も散らされるといった趣向がこらされ、大変華やかだ。
 この「日立風流物」は、33件の「山・鉾・屋台行事」として、ユネスコ無形文化遺産に2016年に登録されているが、それ以前の2009年からすでに「京都祇園祭」とこの「日立風流物」の2件だけは、ユネスコ無形文化遺産にすでに登録されており、再登録されたという、歴史的に極めて貴重な文化遺産なのだ。
 私はこの山車に興味を持ったのは、もちろん、山車自体の形態や出し物も興味深いが、その名称の「風流物」だ。この「風流」という名称は何に由来し、どのような歴史的背景を有しているのか、確認したくなったのだ。

 「日立風流物」の世界文化遺産などの登録名など本来の読みは「ひたちふりゅうもの」だ。「ふりゅう」は古語の読みということなので、「風流物」自体は長い歴史を背景にもった祭事であったことは間違いない。祭事における「風流」とは何かに触れる前に、まず、「日立風流物」の起こりから歴史を簡単に触れておきたい。
 「日立市史」によると「日立風流物は従来宮田風流物とよばれた」としている。これはこの祭事が明治期の日立村統合前の旧宮田村にあった神峰神社のものであったからだろう。なお、「市史」や現在の日立市の公式文書では、この「風流物」につては「ふうりゅうもの」とルビを振っている。これは読みとして「ふうりゅう」が庶民の間で近世近代を通じ一般化していったため、それを採用しているとしている。
 この祭事の出し物の起こりについては「元禄9(1696)年水戸藩主徳川光圀公の指令によつて行われた神峰神社の大祭礼には、宮田風流物の素型であったところの『山車』が繰りだされてことは記録で明らか」だとしている。ただ、この山車に人形芝居を配したのは享保年間(1716~1736)頃だともしている。そのきっかけとしては、享保の大飢饉の節約令で、旅芸人たち同村に寄食せざるをえなくなり、そのお礼に人形芝居を伝えたという言い伝えを「市史」では記している。
 ここで興味深いのが、神峰神社の大祭礼が藩主の命で行われたことである。藩主が祭礼に介在したという言い伝えは他にもあるが、この事例の特殊性は、徳川光圀の神儒一致の思想にあり、大祭礼の実施の指示というより、鎮守の統合による神社復興政策の一環だったことだ。
 江戸幕府は、中世末期の宗教勢力に支配者が手を焼いた経験から、仏教勢力を中心への統制を強め、なおかつ、主物人別帳など統治組織の末端を担わせる宗教政策を推し進めた。なかでも水戸藩は領内に真言・天台の密教系寺院が多かったこともあって「茨城県史」によると、徳川光圀を中心に「神仏習合を改めて純正な神社崇敬の制度を定めるとともに、多数の寺院が乱立して藩の経済、民衆の生活におよぼしている弊害を取り除き、迷信、邪信を正して秩序ある宗教制度を確立」を目指したとしている。社寺改革は1666(寛文3)年、社寺整理のための実態調査である「開基帳」の作成を手始めに、統制機能としての寺社奉行を設け、1669(寛文6)年には寺院整理を実施している。

 小寺、葬祭を行っていない寺、檀家なのない寺などを対象に真言、天台系寺院を中心に7割を超える寺院を整理したという。同時に神社改革も進められ、「県史」によると「『一郷一社の鎮守はきっと崇敬いたし、これをさておき』、小さな祠、淫祠は破却」や社僧の廃止など「神仏習合の否定と一村一社の制の確立」を実施した。この方針は1696(元禄9)年の藩領全体の神社整理につながった。
 徳川光圀は中世における仏教の専横と腐敗に強く不信をもち、朱子学などの道徳的な儒教を重視し、日本の伝統的な神道を融合させた「神儒一致」を思想基盤とした宗教政策を取り、これを梃に藩内の支配体制を固めていったという。
 この1696(元禄9)年の神社整理によって、日立の神峰神社も宮田村だけでなく、助川、会瀬の三村の鎮守とすることになり、改めて祭礼日が設けられ、祭神が三村に渡御することになったとされ、その際の供奉の祭列が「日立風流物」の原型になったという。そのことから「日立市史」は「徳川光圀公の指令によつて行われた神峰神社の大祭礼」が素型となったとしている。
 それでは、その後、飾り付けた山車で人形芝居など行われるようになったか、ということになるが、まさにそれが「風流物」という名称に表されているといってよい。
 柳田国男は「風流」について「祭日考」のなかで、その端緒は「神の降臨はただの人の眼には見えず、殊に真夜中の暗闇のうちに、御出になるといふ祭も少なく無い。それを日中の照り輝く路を、渡御されるようにしたのは中古からの変化」だとして、その道中を華やかにするために動く舞台、要する鉾、山笠や山車などが考えられるようになったとしている。古くから神を迎えるために音楽を奏でたり、面白い舞を行ったりすることはあったが、昼間の神幸を賑やかにするため山車などを曳き、「是に氏子の者が出演するようになったのと共に、新しい出来事といってよい」と記している。すなわちこのような形態は中世後期から近世にかけて盛んになって行ったとしている。その祖型あるいは典型的な事例が京都八坂神社の祇園祭だとされている。
 祇園祭は 貞観年間(859~899)に疫病退治のため始まったものされ、66本の矛(当時律令下に全国66ヶ国であったことによるという)を立てたとされ、それに田楽、猿楽などが加わり、徐々に華やかになって行ったという。とくに16世紀に入ると町衆の経済力も高まり、山車などの装飾化が進んだという。祇園祭をはじめ、祭り行列の華美化は京都文化から生まれたもので、これを「風流(ふりゅう)」と称したとしている。柳田は「風流(ふりゅう)」という言葉ついて「文字に書けば風流れるだが、我々の風流とは意味が全く別で、今日のいふならば新趣向、目さき思ひつきの次々に変へられて行くことを意味する」という。
 さらに、柳田は「山宮考」のなかで「神幸が日中の晴の行事となり、是に山鉾管弦等のきらびやかな風流を伴なふものが出て来ると、それは亦一つの新たなる感動である故に、本意は既に忘れられつつも、ただこの点のみを採用せられ模倣」されるようなり、他の神を祀る社でも必須の祭事として受け入れられるようになったとしている。
 こうみると、今度はなぜ、御旅所への御幸が始まったかを知りたくなるが、それには、村落共同体の規模の拡張や変化などから鎮守、氏神、産土などの祀る場所の統合などのより神の巡行が必要になったとすることや神に纏わる伝承の地への訪問など諸因があるようで不明な点が多いようだ。この話は本筋から離れるため、ここでは深入りは避けておくこととしたい。
 「日立風流物」という祭事の成り立は、江戸初期の江戸幕府と水戸藩による寺社改革という宗教政策と、「風流(ふりゅう)」という大衆文化が江戸期を通じて作り上げてきたものだということが分かる。「日立風流物」は、山車やそこで演じられる人形芝居の華やかさ面白さだけでなく、このような歴史的背景を知ると、また違った興趣が加わるのではないだろうか。

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参考文献・引用文献
日立市シティプロモーション「日立の風」https://www.city.hitachi.lg.jp/citypromotion/hitachi_donnamachi/1007474/1004633.html
「日立市史」1959年 448・477/538 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3035330/1/477
「茨城県史 近世編」1985年 180/474 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9643411/1/180
「柳田国男集 定本 第11巻 祭日考・山宮考・氏神と氏子」1963年 筑摩書房 143・178・240/284 https://dl.ndl.go.jp/pid/9546125/1/240

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